本場のキチガイはひと味もふた味も違うぜ Part.5

本場のキチガイシリーズも第5弾に!? 🙂

 裁判所は判決文で「日本の観音寺の住職が1951年に発見したこの金銅菩薩像の腹藏遺物を見れば、「天暦3年(1330年)高麗國瑞州(ソジュ)で32人が布施をして菩薩像を作り浮石寺に奉安した」という記録があるが、瑞州は現在の瑞山(ソサン)の高麗時代の地名だ。曹渓宗も瑞山浮石寺が高麗瑞州の浮石寺だと明らかにしていて、この金銅菩薩像の当初の所有主は浮石寺」と明らかにした。

裁判所は続けて「仏像に新しく金を着せたり補修したり移す場合には、腹蔵遺物などにその事実を記録するが、1951年に発見された腹蔵遺物には移したという記録はなく、仏像を作った事実が記録されているため、この菩薩像が正常な交流過程を通じて日本に渡った可能性は少ない」と説明した。また「観音寺は朝鮮で悪行を犯した倭寇集団の頭目の河野平左衛門モリチカが仏教を修養して1526年に創建したという研究記録がある。この菩薩像は頭にかぶる宝冠がなく焼け焦げた跡もある。したがって、浮石寺に奉安した菩薩像が観音寺に存在したというのは、倭寇によって略奪されたと推測されるので浮石寺所有とみるべきだ」と説明した。

浮石寺の円牛(ウォンウ)住職は「裁判所が歴史的事実を根拠に賢明な判断をした。日本に不法流出したと推定される7万点あまりの文化財を取り戻す出発点になることを期待する。金銅菩薩像は、判決文どおり本寺である修徳寺(スドクサ)の聖宝博物館に奉安する計画」と話した。

金銅菩薩像は丈50.5センチ、重さ38.6キロで、1973年に日本の有形文化財に指定された。K氏ら文化財窃盗団が検挙されると観音寺は盗難文化財として金銅菩薩像の返還を要求したが、浮石寺側は略奪されたものであるので当初の所有主に返さなければならないとして対抗し、韓日間で論議になった。

日本の菅義偉官房長官は26日、定例記者会見で「こういう判決が下されたことに対して非常に遺憾に思うし、迅速に仏像が日本に返還されるよう韓国に適切な対応を要求して行く」と話した。

情報源: 600年ぶりに浮石寺に戻る金銅仏像 : 政治 : ハンギョレ

ちなみに李氏朝鮮時代、仏教の弾圧が行われていて、存続許可された寺の中に浮石寺は無いので1407年には廃寺になっていると思われる。

なので、この記事に出てくる浮石寺は、同姓同名の別人みたいな感じで仏像の寄贈を受けた当事者では無い訳だな。

修徳寺の大雄殿(国宝第49号)、鳳停寺の極楽殿(国宝第15号)と共に韓国最古の木造建築の一つとされている。扁額は恭愍王(在位1351年 – 1374年)の親筆である[2]。1916年の解体補修のさい、1358年(恭愍王7年)に盗賊によって建物が燃やされ、1376年(禑王2年)に再建したと書かれた墨書銘が発見された。

情報源: 浮石寺 – Wikipedia

とあるので盗賊が盗んだ説は分からないでも無いが、仏教弾圧の1407年の廃寺の時点で、仏像が首チョンパされてるだろうから、日本に渡ったからこそ残っているとも言える。

どの道、日本に渡った経緯がどうであれ、推測にしかならんので、法と証拠に基づいた近代法治国家としては、推定無罪で日本の倭寇に盗まれたという結論には成り得ない。

南鮮の地裁の頭のおかしい所は、「正当な手段によって日本に渡ったという証拠が無い限り、仏像は渡せない」と主張した点にある。

普通は不法行為の立証によって、有罪か無罪かを決めるが、ここでも「物証は無いが心証では確実だ」という実に未開な南鮮人らしい考え方が遺憾無く発揮されている。

驚くべきは、法と証拠に基づいて判断する裁判官においてすら、こういうキチガイっぷりで、被害妄想と自己愛性人格障害のキチガイが大手を振って歩いている南鮮というのは、つくづく基本的価値観を共有できないと思う訳ですなあ。