過去に日本語が通じないと拙ブログで愚痴ってはいたが、今回もまたそういうネタです。
ある所で、「本当に頭のいい人なら頭の悪い人にも分かるように説明できる」と、当たり前の事をしたり顔でキメてる人が居たが、どうかと思う。
まぁ、わしはバカなので、わしに対して言った事ではないだろう 🙂
こっちは普段使ってる言葉なのに、それを「頭がいいと思っている」と、自分の低レベルさを嘆くより、他人を引きずり下ろす事で精神の安寧を得るってところが、極めて俗物的で微笑ましい 🙂
まあ、不必要に難しい言い回しを使おうとするのは確かにバカだとは思うが、長々と言葉を連ねるより、それを的確に表わす短い言い回しが使えるなら、その方が意思伝達には効率的だ。
知らない言葉を使う奴がいたら、わしなら「新たな知識をもたらしてくれる人」として敬意を払うが、他人を引きずり下ろして自分と同レベルに下げたがる奴には軽蔑しかない。
前の会社だと、「適宜やります」と言ったら、ボンクラ社長が「(゚Д゚)ハァ?」とか言ってたけど、この程度の日本語が通じないってのは終わってる。
業務遂行を効率的に行なうのも、日本語での意思疎通が円滑にできるかどうかだと思うが、普段使ってる言葉が通じなくて、一々言い換えるってのがバカバカしい。
わしの世代だと、戦中の人より習う漢字が半分に減っている。その後の教育制度改悪で、更に半分に減らされてるので、ゆとりの世代なんかは戦中の人の1/4しか漢字を習ってない。
それを補うのが読書だが、漫画でもルビが振ってあるから漢字学習に使えて、わしは結構、漫画から字を学んだ。
しかし、最近だと、教育制度改悪で育った作者が漢字を知らない場合があって、余り勉強の役に立つ事が少なくなっているのが問題だな。
日本語が通じるって話だと、高校時代の友人が一番だ。
「紀伊國屋に檸檬を置きに行く」とか、「精神的向上心の無い者はバカだ」とかいう話をしてもちゃんと通じるのが心地よい。
三橋貴明氏が企業の英語公用語化について言っていたが、豊富な日本語コンテンツがあり、子供達がそれに親しんで育つ以上、英語が公用語になる事は無いと言っていた。
梶井基次郎や夏目漱石の作品が教科書に載る事が無くなるとしたら、それはもう日本じゃ無くなってると思う。
わしの姉は英文学科を志望したが、赤毛のアンを原書で読みたいというのが動機だった。
西欧のアニメや漫画のブームで、必ず日本語で原書を読みたいという世代が出てくるはずで、わざわざ日本が日本らしさを捨てて外国に迎合しなくても、外国の方から寄って来てくれるから、要らん事はすんなと言いたい。
まあ、英語公用語化ってのは、グローバル企業の守銭奴が、日本で商売するのに言葉が通じないから、「日本国民を変えてしまえ」って話なので、こういう奴に迎合するバカを日本から叩き出すのが先決だな。